昭和49年06月01日 月次祭
生きたくば、信心をして長生きをせよ、生きたくば、信心をして長生きをせよ、真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなり、真に有り難いと思う心、すぐにみかげの始めなり。
信心して長生きをすると言う事は、信心をして金満家になれよと、金満家になりたくば信心をして、金満家になれよと、そう言う事になると思うです、生きたくば信心をして長生きをせよと。ただ働いて金満家になれよと唯お家を取ったり、体を大事にする事だけで、長生きをせよと云うのでは、是はただ長生きをするだけ、ただ金満家になるだけ、真の人間の幸せには繋がらんのであります、長生きをしたからと言うて、ね、幸せに繋がっておらなければ、金満家になったに致しましても、ね、
それが人間の幸福に繋がっておらなければ、折角の財産も、折角の健康も言わば台無しであります、その台の所を愈々大事にしなければならん、それが信心なんです。どうでしょう皆さんも矢張り、長生きをしたいと思う様になるでしょう、ならば金満家にもなりたいと思う様になるでしょう、ね、なら信心をして長生きをせよと仰せられる、信心をして金満家にならなければいけんのです、ね、でなかったら人間の幸福に繋がらんのです、ね、勿論真の幸福です。
そこで信心すると何故金満家になるか、信心をさしてもらうと何故長生きをするか、しかもその長生きが、その金満家に言わばお金に不自由しないと言う事が、金満家と云う事は億万の金をね、そのぉ貯めると云う事じゃない、それこそ使うて減らぬ金百両である、言うならお金のお徳を受けると云う事である、必要な金が必要なだけ、何時もあると言うのである。千円使うたらもうあとから千円はちゃんと入って来ておると云う様なおかげの、もう限りないただ普通で言うお金持ちと云うのは。
なら億万の金を持っておったって、億万の金を使うたらお終い、そう云うのではない、信心しておかげを頂くと云う事はそう云う事、ね。だから信心をなしに言わば億万長者になったとても、信心をしないで健康になった所で、それでそれは百まで生きた所で、人間の真実の幸福と云う物には繋がらない。そこでなら信心をしとりますから、合楽教会に御神縁を頂いておるから、なら言うなら金満家になるのか、長生きをするのかと言う事でもない言うなら信心である、ね。
真に有り難いと思う心すぐにみかげの始め、信心によって真に有り難いと云う心を私共の心の中に、頂き続けると云う修行なのです、信心とは言うならば有り難うならせて頂く稽古なのです、ね。その有り難いと云う心がです、暑かっても暑さを感じん寒かってもまた寒さを感じない、ほどしのものなのですから、ね、その真に有り難いという心を、目指して信心さしてもらう。
どう云う信心すりゃその真に有り難くなれるのか、どう云う修行さしてもろうたら、億万長者に繋がる、長生きのおかげに繋がるような、おかげになるかと云う事を、今日は聞いて頂きたいと思う。今日は月次祭の、の時は何時も、両親と一緒に食事を、月に四回だけは必ず両親と一緒に食事さしてもらいます、今日はちょっとお客さんもありましたから、一緒に、ちょっとお神酒がちょっと多過ぎた、ね。
それは酔うた気持ちと云う物は良いですけども、後にまだお祭を控えとると思うと、中々楽にもなれない、けれどもやはり、体がやっぱきつい、それで先生時間ですよと言うて起されて、それから出て参りまして、霊様へのご挨拶を申し上たんですけれども、何とはなしに体がきつい、だらしい、ね。して神様にこう云う様な言わば心、また体の状態では、有り難いお祭も頂けないと思いまして、その事をお願いさして頂いたら、先日から末永先生達が、あの結婚をさして頂きましたが。
あの時にあの結婚写真を頂いた、そこにその写真が出けたと言うてその、た、あの色々沢山麻生さんが持って来て下さったね。その時に私の心の中にですね、言うならばあの新婚の心持ちとでも申しましょうか、昨日一昨日帰りました新婚旅行からで昨日が月末御礼会でここで信話会が御座いました中で、末永先生が発表しておりました。もうただ楽しゅうして楽しゅうしてと云うこの4、5日間でしたと云う話をしてました。
それはこの楽しいものが何処から湧いて来るだろう、来るのだろう、と自分で思う位に、楽しかったと云う発表をしております。大体皆さんもご承知の様に、どっちかっち言うなら、ちった強情なほうですかね末永先生は、、植木の手入れをしよった、だから垣根をずーっとこうやっ、やってるわけです、だから垣根と云う物は向こうが見えない様にするんですから、下がこう下も根の所だけを、綺麗に切ってしもうてから、向こうがポンポンに見えるごとしてしよる。
それで今日の言わば花嫁さんである所の、公子さんが「末永先生ああたそげんとこばしよりなさるならああた向こうが見える、見えてしっ返っていかんじゃないですか」っち言うて、「そげなことなか」っち言うてこうやって、それから「親先生ちょいと末永先生は、下ん方ば刈りなさりよるですよ」っち言うちから、言うち来ましたからしたらやりよるんです、それで私が言うたから要約止めた。もう彼女ごんが言うた事はもう聞かん、言うなら右と言や左と云う様な物が兎に角ちらちら出て来るんですね。
昨日は久富先生がお留守でしたから、一人でお風呂にも入りその食事も一人でさしてもろうた、そして御祈念の時間まで休ませて頂くんですけども、何時も久富先生が足揉んで下さる、休んでおりましたら末永先生があぁやって来ました、「あの公子さんが足を揉めっち言いなさったから来ました」(笑)ね。今までの彼だったらそげな、その女子が言う事は聞きやせんとですけれどもね、もうそこがやっぱ新婚ですよね、(笑)、いや公子さんじゃない公子ちゃんじゃん。
「公子ちゃんが行けっち言いましたから、足揉みに来ました」(笑)、そんならいっちょお願いしようかと云う訳でですね、足を揉み揉んでもらった訳ですけれどもね。もう楽しゅうして楽しゅうしてというのはです、いつの場合でも誰が言うても、はいと言える心から生まれて来るんじゃないかと思うです、素直な心です、ね、彼が右と言うたから左にすると云う様な、私は心の状態では、私は真に有り難いと云う様な心はおぼつかないと思う。御教えを頂いてもそうです。
親先生はああ言われるけれどもと言うたら、おかげにならん、実を言うたら右が本当だと思うけれども、親先生が左と仰るから、例えば泣く泣くでも、それを行じて行く所からです私は、ね、有り難いと云う物が段々育って来ると思うのです。この頃は例えば食べ物でも、季節感と云う物が段々なくなってまいりました、ね、例えばキュウリでもかぼちゃでも1年三宝ある、スイカでもなんでももう、何時も果物屋の店頭にスイカと言えばスイカが買えれる時代である。
だから一向その何と言うんですかね、昔私共は子供の時分に、あ言うなら、早物食べと言うてその、ね、キュウリの成り始めの頃の、ものを早物と言う、その早物の風味とか味合いとかと云う物が段々希薄になった、薄くなって来た様に思う皆さんどうですか、トマトでもなんでも何時もある、あれが本当にあの時期に成ったトマトと云う物は、もっと美味しかった様に思う、ね。
第一私共はこの目で見たり、ね、聞いたり舌で味合ったりと云うその、色んな感覚と云う物があります、ね、その感覚がやっぱり5月には5月、6月には6月の食べ物が昔からあった、ね、それを例えば私共が、季節感を感じながら、賞味するはぁまだ珍して美味しいと、所がこの頃はあんまり珍しすぎてから、もう何時もあるからそれがもうふんだんになってしまった、ね。
季節感もなんも味合えなくなった、私は信心もねこの季節感に良く似た、味合いと云う物が、あると云う様に思います、ね、私共が何とはなしに心が言わばだれておる、今日の私のお祭をにかからしてもらう、霊神様の前に出らして頂くと、何とはなしに体がきつい、けれども神様から、あの新婚さんのお知らせを頂いた時にです、はぁ新なものが欠けておったんだと、初心なものが欠けておったんだと、信心は日に日に新と仰せられるけれども、その新なものが欠けておったんだと分からして頂く、ね。
そこにです、言うならば、神様は丁度生きた電気の様な、電気体の様な御方です、ね、ですからこちらが生きた心を持って向かえば、生き生きとして交流するのです、こちらが枯れた木枯れた心を持って接しましても、いかに逆とんぼうして拝んでおっても、一向神様と通わない、それを真に有り難いと云う心なのです。不思議ですよ心と体がね、もうだるうく、思うて霊前に座らして頂いた時にです、ね。
自分に更なものが欠けておったんだと、ね、生き生きとした心が欠けておったんだと、気付かせて頂いて、はぁ本当に日に日に更と、言いながら更なものがなかった事を、お詫びさして頂いておりましたら、神様と通いだした霊様と通いだした。そしたらねこの五体中の血がね、入れ替わったかの様にジィーんとするものを感じるのです、皆さんも体験がおありになるでしょう、ね、どんなに寝むかってもです、どんなにきつかってもです、神様と一度なにか通う時にです。
私共の五体の血が入れ替わった様な、言うなら生き生きとした心が生まれて、所謂スッキリとした体の動き、体の状態にならして頂く事が出来る。成程真に有り難いと云う物を求め続けての生き方がいかに、長生きに言わば続いておるか、ね、成程こう云う心でならば、おかげを言わばキャッチする事が出来るのだと言う事を感じるのです、ね。ですから信心しております、拝んでおりますと言うても、その真に有り難いと云う物を願い求めての信心でなからなければいけません。
分かっておるだけでは有難いものは生まれて参りません、ね、初心を忘れべからずと言う事を申しますけれども、なかなか持ってその初心と云う物が、分かっておるけれども何時もそれが何時の間にか古くなってしまう訳です。昨日も今申します様に一人でお風呂入らして頂いた、何時も久富先生が一緒へ入って、おぉ本当に頭のてっぺんから足の爪先まで洗うて頂く、私よりも十も多い言うならお爺さんがもうそれこそ一生懸命洗って下さる、もう金光様何遍唱えるやら分からん本当に勿体無い有り難いと思う。
お食事も先生と一緒にさして貰う、ね。そしてお食事がすんだら足を揉んで貰う、もうそれこそ有り難尽くめの中にですから、是はまあ当然有り難いと思うのは当たり前ですけれども、それが段々慣れっこになってまいりますと、それがもう当たり前の事の様になって来る、ね。そこでもうよくよく私共が、心掛けさして頂いておかんと、有り難う御座いますが中々出て来んのです、そこでです言うならおかげを頂いておるから、有り難いかと言うと、なら昨日の様に一人でお風呂に入って。
一人でお食事をさしてもろうて、おりましてもね、是は一人でなからなければとても、味合えないだろうと言う、金光様が出て来る、もうそれこそ二人や三人で賑やかな、例えば中にある様にでもですもうしみじみとした有り難いものが私の心の中に、もうお風呂へ入っておる間感じる事が出来る、ね。ちょっとひねればお湯が出る、ちょっとひねれば水が出る、石鹸を使うてもタオルを使うてもね、もうそれこそ一掬いのお水の上にも、何とはなしに有り難いものが、通うて来る。
それこそ有り難い勿体無いで、お風呂を終わらして頂く事が出ける、私はうんなら、ね。そうして久富先生と一緒にお風呂に入る時だけが有り難いのであって、ではなくてなら一人でもこんなに有り難いのかと、一人でお食事を昨日もさして頂いて、直子がお粥をしてくれとりました、ね、そこへお粥をしてくれておる直子が、本当に私が感動しておるのを見てから、不思議に思うだろうと思う位に、一人でお食事を頂きながら、感動しながら頂いておる。
その有り難いと云う物は何処から湧いて来るか自分にも分からないけれども、ね、その、有り難いと云う心がね、先程西岡先生が、私の修行中の時分をお話ししておられたが、あの時分にあの様な修行が出けておったと言う事も、この、有り難いと云う心が支えておったんだ、この有り難い心があったから、あれをあれなりに有り難かったんだと言う事である、ね。今は結構過ぎる程しのおかげを頂いておるから、まあ言うなら有り難いのは当たり前だけれども、ね。
それでもやはり人間ですから、ちょっと隙間が出来ますとです、ね、今日の様に暫くではあるけれども、体がだらしゅうなってきつうなって、何とはなしに神様へ向かう心すらも、なんか、こう遠い感じがする、でそこに神様にお気付けを頂いて、この血が新たに変わる様な思いがした時にです、神様と交流した。確かに天地の親神様って云う方はそう云う方です、三代金光様が、日に日に更とこう仰せられたが、ね。
日に日に更な信心を願い求めると言う事、それにはならどういう信心をさして頂いたら更な心が生まれて来るか、何時も心の中に有り難いと云う物が湧いて来るかと云う所に、お互い焦点をおいて、信心さしてもらわなければならん。どう云う所にあると思うですか、それは人間ですから、そら何時もかつも有り難う涙がこぼれよる時ばぁっかりと云う訳でもありません、けれども何時も絶えず私の心の中に去来するもの、何時も自分の心の中にあるもの、それはね私がおかげを受けておる、ね。
皆さんがこう云うこの位なおかげを皆さんが頂かれたら、素晴らしい事になって来るだろう。素晴らしい世の中に成って来るだろう、私の様な者でもここまで頂けたんだからね。私以外の人だったらもっと素晴らしい心の状態も開けて来るに違いはない、言うならば人が助かる事さへ出来ればと教祖様が仰ったと言う事で御座いますけれども、本当に人が助かる事さへ出来ればと云う思いが何時も心の中にあるからだと思うのです。
昨日芝さんの姪にあたられます、石井さんって云う方が久し振りで参って来たでこの方ちょっと忍者と云う、ですから私は必ず御神米に一筆なにかを書いてあげるね、この前も私が嫌いな物が好きになると云うお話しをしておったのを、あちらに書いてあげとった。私はねもう子供時からあの、カーキ色と云う色がもう大嫌いの色であった、それが何時の間にかね、私がそのカアーキ色が大好きになってしまっておると言う事、お互い人間でもありますよね、あれは顔を見るともう好かんっち云うのがやっぱおるね。
だからもう、顔見るごとなからけんもう、見るごとなか、周りに来たらピッとこうやって、それこそ石当たった様にしてひっくり返って来る、というような人もある位、僕の好かんやつが来よった回れ右しよったね、世間が狭ーもなってしまうね。色でもそうです、もうあの色は好かんこの色は好かんっち云うなら、その色だけの世界はもう狭められたわけです、所が実際私は、子供の時から、もうカーキ色だけは、ふるふる好かん色であったけれども、そのふるふる好かん色が。
今では一番私の好きな色と云う程しに、なっておる、皆さんがここでご本を作ると表紙にカーキ色を使う、ね。教会きょうを作ると言やカーキ色の旗を作る、と云う程しにおかげを頂いて、ね、それがうんなら、好きになろうと勤めたからではない、ね、私の心の中にです、限りなく美しゅうならせて頂こうと云う精進、言うならば改まり、言うならば本心の玉を磨くと言う事に精進、精進させて頂いておりましたら、何時の間にか嫌いな物が好きになっておったと云う話しである、ね。
人間関係で何時もその人悩んでおる、昨日は、一昨日は、私はそれを、ね、石井さんに書いて差し上げた、ね。相手がね、相手が喜ぶ事ばかりを、考え続けたら良いですと書いてあげました、相手が、ね、喜ぶ事ばかりを、思いなさいじゃなくて、考え続けなければいけない、商売にん出あるならば、お客さんが喜んで下さる事ばかりを考え続けたら良いのである、ね。
その心が神様に通うのである、その心が、天地に通ずるのである、だから何時も交流しておる、交流しておる時には、私の心は生き生きとして有り難い、私が限りなく美しゅうならせて頂こうと、限りなく、ね。是で良いと言う事はない、限りなく美しゅうならして頂こうと言う、その心が、神様がお水であるならば、私も愈々水を目指さして頂いて、神様と一体になれれる所の、おかげを頂きたいと、もう願いに願い、て、おるその心が、神様の心に通う。
そこから更なものが生まれて来る、そこから真に有り難いと言う心が湧いて来る、またそれだけの事じゃありますまい、けれども皆さん本当にです、神様にお喜び頂ける様な事がです、心の底から思い続けられると言う事は素晴らしい事です。そこから更なものが生まれて来る、それは季節感の風味とか味合いの様な物である、同じかぼちゃでもやはり季節の物が美味しい様にね、それは一人であっても有り難いね、沢山の人と一緒にご飯を頂いてもなおさら有り難い。
一人で頂いておればまたなおさら有り難い、皆さんに何時も言う様に、おご馳走が三界の珍味を前にしておる事も、あぁ有り難い嬉しい。けれどもね「今日は先生何にもありませんよ、もう今日はお茶粥さんで、ですからもうお漬物だけしかありませんよ」と言われる時には、私はより有り難いから不思議です、ね、それは私が過去二十数年前にです、この茶粥さんだけでも良い、日に一碗しか頂かなかったと云う時代に。
子供やら親達にだけはお粥さんでも良いから腹いっぱい食べさせたいもんだなぁと思うて、願いがかなえられなかった時代があったんですね。その時分にその茶粥の味と云う物を真から味合っておったね、たまたま茶粥が食前に残って来ると、それがまた一段と美味しいとか、嬉しいではなくて有り難いのです、ね。だから一人でも有り難いのです、ね、足をもらっ、揉んでもらっても有り難い、揉んでもらわなくても有り難い、風呂で背中を流してもろうても有り難い。
一人で洗わして頂いておってもまた尚有り難いと云う様なです、何時もそこに有り難いと云う物の答えが出て来ると云う、その、おぉ、原点としてです、神様の心が分かり、そして神様の心に沿い奉ろう、神様に喜んで頂ける様な心掛けにならせて頂こう、相手が喜ぶ様な、事だけを考え続け様と、そう云う発心をした時にです、ね。私は天地と私共の間に、新しい交流が生まれる、その交流が私は更な心だと思う、その更な心がです、愈々おかげを頂いて行く。
真に有り難いと云う心はその様にして育って行くのである、生きたくば信心をして長生きをせよと言う事は、ね、億万長者になりたくば、信心をして億万長者になれよと言う事と同じこと。何故信心をするとそう云う億万長者の徳が受けられるか、長生きの徳が受けられるかと言うと、何時も私の血っ、言うなら、肉体の血が、更なものに入れ変えられて行くからであります、それが真に有り難いという心になるからです。
その心がおかげの全て、人間の幸福の条件の全てをキャッチして行くのです、ね。ですから真に有り難いと思う心が、生まれて来るから、ね、真に有り難しと思う心すぐにおかげの始めと云う、そのおかげの実感に浸らして頂く事が出来る、ね。どうそおかげを頂きましてね、折角信心させて頂くならばです、信心して、ね、長生きをせよと、信心して億万長者になれよと、うんならいっちょなりたいと言うただけではならんのですから、信心すれば真に有り難いと云う心が、生まれて来る教えを何時も頂くのである。
だからその教えを本気で頂いてです。ただ、ね、ただ自分がおかげさへ頂けば良いとかね、自分と云う者を中心にしてです、からの信心では、それはたらいの水をこちらへ引く様な物ですから、大した事はないと、けれども、人が喜ぶ事さへ、ね、人が助かる事さへ出来ればと云う、精神、人が喜ぶ様な事ばかりを、考え続けると云う事は、人が喜ぶ事ばかりを考え続けると云う事は、向こうへ水を押す様な物ですから。
有り難いと云う物がこちらへ返って来ないはずがない、その有り難いと云う心が、ね。神様に通うおかげをキャッチして行く事が出来ると云う事で御座います。お互いが言うなら、同じ食べ物でもです、一年三宝、ね、夏の物が冬に食べられたり、冬の物がまた夏に食べられたりいたしますから、いわゆる季節感といった様な特別な、感じ、と云う物が、味合いの上にも、感じの上にもなくなってきた。
信心もなれっこになりますと、詳しくはなっただけでありまして、生きたものが是に通うて来ない、ね。ここに私は一つ、本気で修行さして頂く気になって、ね。その生き生きとした更な心が頂ける事の為に、精進を怠ってはならないと思うので御座います。どうぞ今日はね私御神前、その季節、季節感と云う事、ね。そこにあったてぼっ、あん食べ物のこと、ね、が無くなったのは。
あまりにもふんだんになったからと云う事ですよ、おかげがふんだんになると言うか、ね。信心が分かったと云う頃から、真にありっ、更な言うならば新婚当時のあの嬉しゅうて嬉しゅうてと云う物が、欠けて来る様に、ね、その欠けておる原因がです、どこ辺にあるかと云う事を、検討して其処ん所を頂いて行く、例えば末永先生じゃないけれども、ね。もう全てを例えば、嫁さんが言う事でも。
はいはいと云う様な心にならせて頂くところから、嬉しゅうて嬉しゅうて、何処から湧いて来るか分らん喜びが、湧いて来る様な物ではなかろうか、素直さを欠いではおらんだろうか、精進を怠ってはいないだろうか、本当に神様の喜んで頂く事とは、どう言う事なのだろうか、ならそれは分かっておりながら、それを行じていないのではなかろうかと言う風に、一つ検討しなければいけないと思うので御座います。
どうぞ。